
馬場次郎(ばばじろう)
1980年:東京都町田市生まれ、神奈川県相模原市育ち
2008年:東京工業大学情報工学科・同修士卒
2008~2023年:株式会社キーエンス センサ事業部 商品開発グループ
2023年:エンジニア育成塾開業
2025年:株式会社ストラテジア設立

こんにちは。講師の馬場です。
エンジニア育成塾の受講生は、「仕事を主体的に進められるようになり、仕事が面白くなった」と言ってくれます。その様子は上司や評価者に伝わり、実際に評価が上がっているのです。このコーナーは、成果につながる思考と行動に注目してお読みいただければと思います!
キーエンス時代
15年半に渡り、社業の中核となる産業用センサの新商品の企画開発を行ってきました。仲間と環境に恵まれ、数多くのヒット商品の実現に貢献することができ、密度高く仕事ができたことに感謝しています。
開発したセンサは、おそらく部署最多ジャンルと言っても過言ではないと思います。結果として、キーエンス史上3人目となる最優秀技術賞を受賞することができました。同時に、特許賞、商品賞のトリプル受賞を果たせたのも嬉しい思い出です。

開発したセンサは?
・近接センサ
・TOF距離センサ、カラーセンサ、ファイバセンサ
・耐環境圧力センサ、ネットワーク対応圧力センサ
・超音波クランプオン微小流量センサ、ハイブリッド型超音波クランプオン流量センサ
・コリオリ式流量センサ、熱式エア流量センサ、気体用省エネユニット
・セーフティレーザスキャナ、セーフティライトカーテン
・ネットワークユニット

主な仕事の内容は?
①市場顧客対応
顧客営業同行、顧客ヒアリング、展示会ヒアリング、タフな大手顧客案件対応
②企画、商品戦略
商品仕様検討、ラインナップ検討、低コスト設計、コストダウン、電子部品原価解析
③技術開発
測定原理発明、アルゴリズム開発、アナログ電子回路、カスタムASIC、MEMSデバイス、放熱設計、モータ開発
④信頼性、品質、規格対応
EMC評価・対策、長期信頼性評価、UL/CSA/CE/3A/EHEDGE/安全/本質安全防爆等の規格認証対応、該非判定対応
⑤知財対応
日米欧特許調査、特許回避、特許出願
⑥調達、製造
海外メーカ折衝・交渉、国内外ファブレス委託先での量産立ち上げ支援、海外製造移管支援
⑦マネジメント・育成
プロジェクトマネジメント、若手エンジニア育成
エンジニア育成塾では、専門技術を深め、技術教養を広げ、全体を俯瞰するための視座を高める方法を教え、具体的に実践してもらうことで成果を出しています。
一方で、新商品の開発に欠かすことのできない、営業・マーケ領域においても経験を広げました。顧客現場の把握に努め、国内営業所の8割を訪問。日本と北米で多数の顧客ヒアリングを行い、幅広い業種の現場に足を運びました。

主な訪問顧客は?
自動車、工作機械、各種機械、金属部品、樹脂部品
半導体製造装置、半導体、電気電子デバイス、液晶
建材、食品、薬品、軍事航空宇宙業界など

訪問した営業所は?
国内営業所の8割を訪問。
訪問:仙台、金沢、富山、松本、東京、神田、八王子、横浜、海老名、柏、川越、静岡、浜松、名古屋、豊田、刈谷、滋賀、大阪北、大阪中央、堺、京都、神戸、広島、岡山、福岡、北九州、熊本の27拠点。
未訪問:盛岡、郡山、宇都宮、高崎、津、一宮、高松の7拠点。
エンジニア育成塾においても、客先に足を運ぶこと、企画・マーケ・営業と協力すること、そのために開発内での動き方をアップデートする方法を教え、実践の背中を押しています。
加えて、自社製品の製造現場の把握も大切です。サプライヤ、自社工場、ファブレスなら委託先の工場に足を運び、量産設計、生産技術、製造部門、物流といった製造業の足腰や血管にも精通していきましょう。私自身も、国内および中国の製造現場へ何度も足を運び、幅広い知見を蓄積していきました。複合的な越境知見を設計開発に活かし、自社利益と顧客価値を両立します。

良い商品をつくるには?
①エンジニアとして専門技術を深め、技術教養を広げ、全体を俯瞰する開発力を高める!
②顧客や現場、競合や市場を把握するために、積極的に現場に足を運び、知見を持ち寄る!
③良い商品を広げるために、企画・マーケ・営業と協力して、顧客に真の価値を伝える!
④製造側の理解も深め、複合的な越境知見を設計開発にフル動員する!
大学・大学院のころ
2000年に大学に入学。幼少期からプログラミングをしており、人工知能や機械学習に興味があったため、情報工学科を選択。機械いじりも大好きでしたが、時代背景を考慮して決定。家庭が経済的に苦しい中、小原白梅育英財団の給費奨学生に採用。6年分の学費をいただきました。加えて、日本学生支援機構の奨学金を借り、家庭教師でお金を稼ぎながら、兄の私立理系の学費を工面することもできました。
大学では、後にGoogleにヘッドハントされることになる2人の友人たちと一緒にコンピュータサイエンスを勉強したり、ロボット技術研究会で機械加工をしたり、メディアアートにはまってSIGGRAPHに出展したり、e-sportでチームを率いて日本大会を連覇したり、黎明期の2chにドハマリしたりと、充実した生活を送ることができました。就職を先延ばしするため、学部と修士で1年ずつ留年して思い切り楽しみました。就職面接では、留年中の活動が評価され、証券会社、新聞社、SIER、電機メーカなど、様々な業種・職種から内定をもらうことができました。キーエンスでは、得意のメカやソフトではなく、未経験のエレキをやらせてもらうことができ、苦労しながらも、念願の「3種の神器」(メカ&エレキ&ソフト)を揃えることができました!
生計を支えた家庭教師は天職でした。高校を2年で中退した方を、わずか10カ月で大検取得と東北大学医学部医学科の合格へ導きました。翌年は最難関の東大理ⅢもA判定。入学後はメンターを継続しました。
SIGGRAPH2006 Emerging Technology出展
SIGGRAPH(シーグラフ)は、アメリカのコンピュータサイエンス学会の中で、特にCGやVRに関する世界最大の国際会議です。アメリカで開催され、80か国から3万人が参加。2004年は見学、2005年はお手伝い、2006年にはE-Techに出展しました。https://dl.acm.org/doi/proceedings/10.1145/1179133
Laval Virtual2006出展
Laval Virtualはヨーロッパ最大級のVRやメタバースの国際イベントで、フランスのラヴァル市で開催されます。落合陽一氏は、2014年から何度もAwardを受賞されています。
IVRC2005 岐阜VR大賞・Laval Virtual賞・市民賞のトリプル受賞
学生チームがVR作品を競うメディアアートのコンテストです。1993年から今日まで続いている偉大な存在でもあります。
RJC2005優勝、RJC2006優勝
ガンホー社が手掛ける、世界最大級のMMO RPG(大規模多人数同時接続RPG)の対人チーム戦の大会です。パソコン9台を揃え、20名のチームを運営して朝4時から夜20時まで練習に明け暮れました。大会には256チームが参加し、決勝戦は都内の各闘技場ディファ有明でリアル対決。2005に初優勝し、翌年の2006年は大半のチームが私たちのチームを倒すことを念頭に挑んできましたが、結果は全勝優勝。東京ゲームショウに招待され、日経から取材の依頼を受けました。https://www.4gamer.net/games/001/G000183/20060522235836/
バトルロボットコンテスト参加
歩行ロボットによる対戦です。ロボット技術研究会の旋盤とフライス盤を駆使して、オール手作り。一人では無理と言われたので、企画、設計、製造まで全て一人で行いました。さすがに製造が間に合わず、自宅に小型旋盤と小型フライス盤を導入しました。こういうのは、チームでやらなきゃね!

大学生活を楽しむには?
やりたいことは全部やる!全力でやる!常識にとらわれない!楽しむとは、自分の人生を生きること。誰も責任を取ってはくれないから、大事なことは必ず自分で決断する。自分の人生を引き受けられるのは自分だけです。
小中高校生のころ
ここから先は、経歴というには古すぎるので、いったん隠しておきます。エンジニア育成塾を受講するにあたって、私がどんな子どもだったのかを知りたいという方に向けて、簡単にエピソードを書いておくことにします。ご興味ない方は、全力で読み飛ばしていただければと思います!
小学生時代
裏山に秘密基地を作ったり、桜の木に登って実を食べたり、川に降りてアオダイショウに石を投げたり、自転車で往復80kmの江ノ島や鎌倉に出掛けたり、本当はいけないのですが火遊びの大好きな少年でした。図工と理科と算数が大好きで、よく図鑑を見ては仕組みを想像していました。家が貧乏で生活が苦しく、なんとか貧乏から抜け出す方法を知るために、日経ビジネスと新聞を真剣に読み込んでいました。マンガはビックコミックで、さいとうたかを氏の作品が好きでした。図書室の産業や工業に関する図鑑は、在学中に全部読んでしまいました。ある日、プログラミング言語の本を見つけ、パソコン室でシューティングゲームを作ったことがあります。実は幼稚園のときに「ツインビー」という縦スクロールのシューティングゲームをプレイしたとき、「工作で作れる!」と気づいたことがありました。その仕組みはこうです。・・・背景をトイレットペーパーのようなロール紙に描いてスクロールさせ、紙にピンを立てておいて、ピンが当たると敵が出てきて、銀玉鉄砲で撃つと衝撃で敵が転がり落ち、硬貨を分別する仕組みで得点が自動計算される・・・この仕組みは、「繰り返し、条件分岐、変数」です。ファミコンの中にはこうした仕組みがあるはずと想像していました。それが、言語の本にそのまま書いてあったので、「やっぱりそうだった!」と感動しました。ほかにも、積み木、レゴ、木工工作、電池工作、タミヤの工作シリーズ、プラモデル、ミニ四駆、ラジコンなどで遊ぶのが大好きでした。この時期に仕入れた知識や考えたことは、エンジニアになってからも非常に役に立ちました。手を使ったものづくりの経験は、とても貴重です。一方で、パソコンを買うお金を稼ぐために、商売を始めました。詳細はまたどこかに書くかもしれませんが、当時男の子に人気だった玩具を、安い店で仕入れて高く売っていました。放課後に注文を受け、翌朝手渡しの即納です。中古の買い取り販売や修理などもして、数万円ですがお金を稼ぎました。学校のお店屋さんごっこでもお金を稼ぐのが大好きで、いつでもお金持ちになっていました。小5からデザインコンテストにのめり込み、相模原市の代表として入賞するようになっていきました。
中学生時代
中学の入学式では、新入生代表の挨拶を行いました。勉強ではクラスで1番になり、生徒会活動をしたり、プログラミング部に入ったり、デザインとプログラミングのコンテストに参加しました。デザインコンテストでは市で1番、県で2番、全国大会でも佳作をとれるまでになりました。このとき気付いたことがあります。それは、コンテストというのは、審査員が求めているテーマがあり、そのテーマに沿わないと上位入賞が難しいということでした。そこで私は、意に沿わないテーマで戦い抜くことを決め、見事に全国大会での入賞を果たします。作品のクオリティに徹底的に拘り、夏休みの1か月間、朝7時から19時まで製作を続けました。精密作業が多く、たった12時間続けるだけでも、目の焦点が合わなくなり、作業ができなくなります。気力が尽きる前に目が見えなくなってしまうため、口惜しいですが早く寝ます。そのため、十分な睡眠をとることが出来ました。結果として、3年間で7回受賞でき、小学校の3回と合わせて合計10回の受賞です。夏休みが終わると、今度はプログラミングコンテストの作品を製作しました。初回から審査員特別賞、2回目は努力賞、3回目で県大会優勝を果たします。中学校生活は順調であるかのように見えたのですが、高校受験で大きな壁に直面します。それは、お金がなくて私立の進学校に進学できないということです。運の悪いことに、1990年代後半は、東京や神奈川の公立高校の進学実績が地に落ちていた時代です。東京では、日比谷高校から200人近くいた東大合格者が数名になり、神奈川では湘南高校が同様の状況に陥っていました。隣接学区外受験をしてトップ校に進学したものの、勉強面では不本意な高校生活を送ることになりました。
高校生時代
相変わらず成績はほぼトップで、生徒会活動なども続けていましたが、塾に行くお金もなく、インターネットでの情報収集もできない時代です。何を勉強すればよいのか分からず、難関大向けの学外模試の成績は散々でした。指定校推薦で慶應大学に行く道がありましたが、貧乏だから海外は無理でも、せめて東大には行きたいという思いがあり、学校の授業を全て捨てて独学を始めます。しかし、教材は教科書で、それをゼロから独学するという効率の悪いことをしたところで、難関大模試の成績は一向に上がりませんでした。結局、現役では東大に落ち、ギリギリ慶應大学に受かります。ですが、受験の前に「東大合格作戦」という本を友人が見つけてくれたのです!そこには、灘や開成から東大に入った人たちが使っていた教材が列挙してありました。なるほど、彼らはこういうのを勉強しているのだなと知り、大喜びで自宅浪人をしました。定番の教材を使って、朝から晩までずっと勉強していたところ、ぐんぐん成績があがり、東大模試で名前が載ったり、難関大模試の偏差値で慶應医医の合格ラインを超えるなど、ちゃんと問題が解けるようになりました。これでやっと東大に行けると思って安堵したものの、受験前に酷いインフルエンザに掛かってしまいます。自宅浪人で体力が落ち、予防接種も受けていなかった上、家族全員でインフルエンザを繰り返し、結局東大受験までずっと治らず、試験に落ちてしまいます。虚しい思いで後期は滑り止めの東工大を受け、給費の奨学金で無償で6年間の大学生活を送ることになりました。受験に失敗したことはとても悔しく、何度も何度も振り返りましたが、振り返るほどに自分自身の至らなさを思い知ることになり、人生の糧にしていくことができました。一生懸命取り組んだからこそ、悔しさを感じることや、誠実に振り返ることができたのだと思います。


子どものとき辛かったことは?
貧乏が辛かった。私が生まれる前、父が無謀な起業で大きな借金をつくってしまい、自分の家がありませんでした。親戚が古い団地に住まわせてくれて、有難いことではありますが、壁には穴が開き、隙間風がとても寒かったのです。ある日、学校から帰ると、壁の穴からベランダまで蟻の行列が出来ていました。でも、それはまだいいのです。一番辛かったのは、やりたいことが出来なかったこと。だからこそ、自分でなんとかするしかないと決意しました。おかげで、勉強も独学、お金も自分で稼ぎました。会社に入ってから新しい技術をゼロから独学できたのも、子どもの頃から自分でやるのが当たり前だったおかげです。どんな境遇であっても、自分にできることを全力でするしかない。その結果が何であれ、自分の人生を引き受けられるのは自分だけです。
最近の過ごし方
2016年に結婚し、2018年に長女、2020年に次女が誕生しました。長女は小学校受験を乗り越え、次女も挑戦しています。家庭では熱心に勉強を教えています。小学生になると、算数の問題にグラフ理論、集合論、バイナリツリー、n進数などが出てきます。そこで、真理値表、ハミング距離などを教えたりします。子どもとよく遊びます。公園や図書館に行ったり、絵本を読んだり、ブロックや塗り絵をしたり、よく旅行にも行きます。保育園と小学校の送り迎えもしています。育児、事業、勉強の3本を人生の柱にして、これから先20~30年かけて、日本最高のエンジニア育成機関に成長させようと思います。

仕事と家族どちらが大事ですか?
切っても切り離せないのが、仕事と家族です。子どもには自分の生き方を磨いて欲しい。私が誠実に仕事に向き合う姿は、子どもにも伝わりますし、課題の見つけ方、解決の仕方もリアルタイムで見せることができます。だから私にとって仕事は育児の一部でもあります。つまり、家族が一番大事ということです!

















